あの日から一連のことを書いておく。


事務所にいたら、ぐらっと揺れた。地震があったときいつもそうしているように、お客様のいる一つ上の階に行ったら、更に大きな揺れが来た。体験したことのない規模の地震だった。お客様を誘導しなくてはいけないのに、落ち着いてください、と声を出しながらも、自分自身とても恐かった。他にもスタッフがやってきて、いつも頼りになる子が「大丈夫です」ときっぱり声を出しているのを見ていたら落ち着いてきて、少し冷静になることができた。怯えているお客様の背中を抱きながら、大丈夫です、と私も言った。


それからは、お客様が全員ビルから退避することになり、私たちも退避し、246を避難袋をもった人たちが大勢粛々と駅へ向かうところを見ながら、ビルの指示を待った。従業員のみビル内へ戻れることになったので、事務所に戻り、その後の営業をお休みにする連絡をあちこちにしたり、地震で壊れたものを片付けたり、明日の準備をしたりした。そうこうしているうちに交通は麻痺し、電話もできなくなった。電車で帰ることは絶望的だと思っていたら、職場から徒歩圏内の友だちが、うちにおいでと言ってくれた。ありがたかった。連絡がなかなかとれなかったのだけど、結局頼りになったのはツイッターだった。また幸いにして、職場には公衆電話があったので、並ばずにかけることができた。家に電話して、元気でいること、今日は友だちの家に泊まることを告げたら、こっちは停電してるからその方がいい、と母が言った。


20時過ぎに会社を出て、21時前には友だちの家についた。何度か職場前のバス停からバスで行ったことのある家だったので、なんとなく道が分かるのも頼もしかった。そしてたまたまスニーカーで出勤してたので助かった。赤ちゃんと二人きりで地震にあった友だちは不安そうにしていた。友だちのだんなさんもさすがにめずらしく早く帰ってきていて、一緒にご飯を食べたりしながら話をした。そのとき初めてテレビの映像を見て、あまりの事態にびっくりした。


大人たちはみんな不安そうにしていたけど、赤ちゃんはそんなことかまわずに、あちこちにつたい歩きをしていた。もう二本の足で歩く姿を見て、びっくりした。そして笑顔で私の顔を触ったり、指を噛んだりして、彼の存在がとても嬉しかった。希望を体現している感じだった。


お風呂に入らせてもらい、布団で寝かせてもらって、翌日他の現場へ出勤する前に事務所に寄ったら、会社に泊まり込んだ人たちがあちこちに電話をしていた。すごくしんどそうだけど、皆を残して一度他の現場に出勤して、でもそっちはあまりに暇だったのでアルバイトさんたちに託し、事務所に帰ってきた。それで、泊まってた人たちに、帰っていいよ、シフト代わるよ、と声をかけ、帰ってもらった。


そのまま働いていたら少しずつ人が減り、課長とあと4人になったところで、原発の爆発騒ぎが起こり、課長の判断いかんではそれだけの人数で何百人にも電話連絡しなくてはいけないかも、というところで、ストレスのピークが来た。そんな恐れがあるなら、電話なんかしないで早く帰りたい。こんなところで死の危険にさらされたくない。結局、電話はしなくてもいいことになり、その決定がなされてすぐに、抜け出すように帰った。


たった一日帰らなかっただけだけど、無事に家に帰れたときにはものすごくほっとした。それからは、なるべく日常っぽく暮らそうと思ってる。毎日できるだけ普段通りに楽しく過ごしたい。